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その後、高句麗・百済・新羅が4世紀から7世紀半ばにわたり韓半島を三つに分け、勢力を争った時代がありましたが、
統一新羅によって分裂していた三国が統一されました。 三国時代には部族国家としてスタートしたこれらの国々が、原始的な国家体制から抜け出し、その成長過程で受け入れ始めた鉄器文化による鉄製農機具の使用によって農業生活を確立させました。
そして政治制度を制定・整備することによって、古代国家が形成された時期でした。
また、仏教が伝来し広がって、儒教倫理とともに後代の精神文化の基盤を整え、中国の大陸文化を吸収、再創造することで先進文明国の位置を固めた時期でした。
三国を統一した統一新羅の衰退とともに、再び始まった“後三国時代”を終息させたのは、高麗王朝(918~1392)でした。太祖王建は、新羅末に分裂した韓半島を再び統一して、高句麗の昔の精神を受け継ぐために、高句麗を縮めて高麗という国号を称しました。この時にサラセンと活発な国際交易が行われ、サラセン商人が韓国の国名を西洋に伝え、西洋人は高麗をコレ(Coree)またはコリア(Corea、Korea)
と呼びました。 高麗王朝は、高句麗の継承を唱え、その地を回復しようという意志から、対外的に北進政策を、対内的には仏教を国教として定め、政治、文化の発展の基盤としました。
14世紀後半に入り、高麗王朝は政治体制が弱まって王権が衰退し、外からの異民族の侵入が続くなどの混乱が繰りかえされました。それに続き、
咸鏡道出身の武将である李成桂が中央政界に進出し、田制改革を断行して経済的基盤を整えました。
ついに1392年7月16日開城で王位に上がり国を開いたのが朝鮮王朝でした。
朝鮮王朝はその基盤を確かにしようと、三大政策を建国の理念として前面に押し出しました。
第一に、外交政策として事大交隣主義を採択し、 中国の明国に対する使臣の往来を通して経済的・文化的な実利を得て、それと共に新しい王朝の国際的地位を確保しました。一方、日本と女真に対しては交隣を前面に押し出し、友好的な交際で平和維持を試みましたが、彼らが国境周辺を混乱させると武力で制裁しました。第二に、文化政策として、崇儒排仏主義を前面に押し出しました。仏教を排斥し、儒教を政治・文化・思想界の根本理念になるようにし、
教育・科挙・儀礼は儒教的な体制に変わっていきました。第三に、経済政策では、農本民生主義を採択し、建国当初から農業を積極的に奨励して国民生活の安定に努力しました。
朝鮮王朝は、農業生産力が高く、交通と軍事の要地である漢陽(今のソウル)を都に定め、城への出入り口には崇礼門(南大門)を始めとして四大門を建てました。そして1910年最後の王である純宗に至るまで27名の王が継承し、519年間持続しました。
しかし、高宗から純宗までの激動期を経た朝鮮王朝は19世紀半ばに入って、朝鮮の伝統社会を維持することができない状況になりました。西欧の持続的な門戸開放要求を受け、ついに1876年開港とともに朝鮮は近代社会への転換がなされました。


●韓国の近代史
1897年、西欧列強諸国の改革要求などの国内外の世論により、
高宗は国号を「大韓帝国(1897年8月12日から1910年10月22日までの朝鮮王朝の国名
)」、王を「皇帝」と称し、自主国家であることを内外に宣布し ました。大韓帝国は専制君主制を唱え、近代国家への発展のために官制を改革することで、社会・経済的な自強運動を展開しました。特に学校を設立する等の教育の振興に努め、1904年1月に局外中立を宣言しました。
しかし、日本はロシアと戦争中であった1904年に韓国政府を強圧し、大韓帝国の中立宣言を無視してソウルを占領し、韓日議定書を締結しました。
これを始めとして、大韓帝国の主権は侵害され始め、日本によって治安権と財政権、そして外交権を次々に奪われていきました。ついに1910年8月22日、韓日併合条約が強制締結されることによって、国権が奪われ、大韓帝国は滅亡しました。それ以降、1945年の主権回復に至るまで、日帝強制占領下の植民統治時期を迎えるようになりました。日帝36年は、韓国民族の長い歴史上唯一の民族の正統性と歴史の断絶の時期にあたります。この期間、韓国人の独立闘争は啓蒙運動、社会運動、学術活動等、すべての分野にわたり類例のない進行を
果たし、中国とアメリカ在住の韓国人独立運動家達によって活発に展開されました。それは臨時政府およびアメリカを中心とした外交活動と
独立軍の抗争、李奉昌、尹奉吉などの義挙に現れました。
1945年、第二次世界大戦が終結すると、韓国は36年にわたった植民地生活の束縛と日本の不法な占領から解放されました。しかし韓半島の北緯38度線を境界として、南と北に米・ソ両軍が分割進駐することで、国土の分断という悲惨な運命に置かれるようになりました。北韓に進駐したソ連軍政当局は、南北間の往来と一帯の通信連絡を断絶することで、38度線を南北を分ける政治的境界線としました。また、共産化統一が保障されない、いかなる統一政府樹立も拒否することによって、韓半島の半永久的な政治的分断を強要しました。
1947年、国連は第二次総会で、統一された韓国政府樹立のための総選挙を1948年5月31日以前に韓半島全域で実施することに決議し、
選挙監視のための国連韓国臨時委員団を構成しました。しかし、ソ連軍政当局がそれに対し受諾を拒否し、国連韓国臨時委員団の北韓地域の出入り
を禁止したため挫折してしまいました。 これに伴い、1948年5月10日、38度線以南の地域だけで国連監視下の自由総選挙が実施され、
制憲国会が構成されました。1948年8月15日には大韓民国の建国が世界中に宣布され、1948年12月12日第三次国連総会は大韓民国政府のみが
「韓半島に存在する唯一の合法政府」(国連総会決意195Ⅲ号)であることが決議され、韓半島の唯一の合法政府として大韓民国の存在を確認されました。一方、韓半島の北方ではソ連軍の庇護下北韓地域を掌握した金日成等の共産主義者らによって北韓地域に独自的共産政権の「朝鮮民主主義人民共和国」を宣布して、ソ連をはじめとする共産諸国の承認を得ました。
しかし解放と1950年6月25日韓国動乱以降、それまでに築かれた植民地的経済の不均衡性と歪曲された近代化過程などで政治・経済・文化・社会等
の様々な分野に深刻な後遺症を残しました。戦後処理過程でソ連とアメリカの分割占領のために確定された軍事境界線(38度線)により、
数千年間単一生活圏を形成していた民族が二つの異質的な生活領域に分割させられ、国土分断と民族分裂という大きな悲劇を抱えるようになり、
今日まで一つの国家に統一するための努力が続けられています。


●韓国の民主主義の歴史
今日の大韓民国は、自由と独立のために建てた大韓民国臨時政府の精神を伝統として受け継ぐという意味から、1948年7月制憲国会で国号に定め、大統領制国家であり1995年地方自治制が憲法に明示された民主共和国です。
韓国動乱後、大韓民国の初代大統領李承晩政権は、国家の再建と社会、政治、経済全般にわたる秩序を正すことに力を注ぎました。特に、戦争未亡人と10万余名の戦争孤児、27万9千余名の失業者などを救済するための努力が行なわれました。
初期の政府形態は、憲法制定当時の対立し た政治勢力間の政治的妥協によって議員内閣制要素が加味された大統領制でした。しかし1954年11月、第二次改憲で、政府形態は議員内閣制要素をほとんど清算した大統領制になりました。
韓国は8・15主権回復以降、韓国政治には数多くの政党が離合集散の過程をたどってきました。主要政党をまとめると、第一に、韓国民主党→民主国民党→民主党→民主国民党→新民党→民主韓国党、新韓民主党→平和民主党→民主党→ハンナラ党の順に続いてきた野党勢力と、第二に、第一共和国の大部分を執権した自由党(1952~1960)、第三に、第三・四共和国の執権党の民主共和党(1963~1980)、第四に、第五共和国の与党として出発した民主正義党、第五に、第六共和国の時に三党統合で誕生した民主自由党、金大中政府の国民会議などの六大政党勢力を挙げることができます。その他の政党は群小政党でしかなく、韓国政党は国民の政治意識化、政治人口の結集や議会政治の活性化に大きく寄与し
ました。
大韓民国の民主主義は、政権の伝統性と改憲に対する終わりのない論議の中で一連の激動期をたどりながら今日に至っています。
その結果、 1987年6月民主抗争と6・29宣言などを起点として、韓国憲政史上初めて与・野党合意による大統領直選制の改憲がなされました。
大統領五年単任制による平和的政権交替の伝統を確立することによって、民主国家発展の要を確かにしました。また、国民の代表機関である国会の権限を強化し、その機能を活性化することによって、政府と議会間に権力の均衡と調和を図りました。金泳三政府は、経済の発展のために金融実名制を導入する等の経済発展を試みました。


●大韓民国の現政権
1997年12月に行われた大統領選挙は、大韓民国憲政史上初めて与野政権交替を実現し、平和的な政権交替と、韓国政治の新しい時代を開く歴史的な意義を持ちます。
韓国は、1998年12月、東南アジア諸国連合(ASEAN)と中国および日本との首脳会談を持つなどの活発な外交活動を繰り広げています。1997年11月から始まったIMF(国際通貨基金)管理体制の外国為替危機を財政・金融緊縮と対外開放、金融および企業の構造調整などを通じて危機を克服しました。また、南・北韓の間の緊張関係を緩和し、北韓を改革、開放へ誘導するために、和解と包容姿勢で南・北韓の交流と協力を増大するために太陽政策を唱え、対北韓投資規模の制限を廃止して、北韓との交流協力のために金剛山観光開発事業を推進しました。
一方、2000年6月13~15日、北韓の金正日国防委員長の招待で平壌を訪問し、6・15南北共同宣言を行いました。50余年間持続してきた韓半島冷戦過程から相互不信と敵対関係を清算し、平和への新しい幕を開けることに大きく寄与した功労で、金大中大統領は2000年大韓民国初のノーベル平和賞授与者となりました。社会、政治、経済、文化などの多方面で、終わりなき改革と発展を繰り広げていく大韓民国は、2002年6月、日本と共同で「2002年世界ワールドカップサッカー大会」を開催しました。
2008年には第17代李明博大統領政権が発足。創造的実用主義を土台に経済の先進化、生活の質の先進化、国際規範の能動的受容と創出などを通じ、新発展体制を構築するという国家ビジョンを提示しています。
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